時給1,500円でも意味がない
「『ものごとには必ず二つの側面がある』というのが彼の意見です」
「良い面と、それほど悪くない面の二つです」
「時給1,500円」
と聞くと僕は高給だなと思う。
塾のアルバイトでは2,000円を超えてくるものもあって、
それに比べればそうではないけれど、
一般的な金銭感覚で言えばそうなるだろう。
そんなわけで最近時給1,500円のアルバイトを始めた。
業種は飲食、BARである。
友人からの話で「オープンしたばかりで、人が足りない」とのこと。
僕は基本的に「暇なんで」と話し、姿勢をみせるが、実際は他のバイトや大学の授業と重なってあんまり貢献できていないかなと思う。
給与は勤務後に社長から聞いたので金目当てで飛びついたわけではない。
わけではない。
1,000-程度であれば今日はたまたまで、今後はすみませんと断っていた。
しかしなんてったって時給は1,500円だし、社長は良い人だし、同僚は日本に来て三ヶ月のドイツ人だし、仕事はまあ楽だし、客も来ないし(来ないで)、といった感じにデメリットというデメリットがないので、ガッツリではないがママがいない時、ドイツ人しかいない時など、経営のニーズと僕のスケジュールとが合えば働くことにした。
もちろんビジュアル的に僕がBARに合わないことは一番僕が感じている。
カルチャー的にもタバコも酒も、女も、あいつら本当下品だなと思う。
とはいえ夜が重要なファクターであることはわかっている。人生の夜。
しかし来ている客は皆金持ちなのである。
「こいつらのカルチャー=金持ちならオレは貧乏人でもいい」と思うほど
楽なバイトは一見「ええやん!」ってなる
しかしそこには大きな落とし穴が隠されている。
昔僕がしていた時給1,100円のカフェバイトは時給3,000円だったかもしれない。
仲間もみんな良い人たちで、コミュ障なオレにとっては常連もできたり、接客を学んだりと社会勉強をする上では良いところだったなと思う。実際身内にも良いぞ〜と勧めるほどである。
この時給3,000円という表現は
「むしろ自分がお金を払って勉強させてもらってる」の意である。
なので時給1,500円を高給だなと思い、自分の時間を有益ではない、ただの時間をお金に変える錬金術にしてしまうのはあまりよろしくない(クソ)、投資家失格なのである。
そんなわけで、バランスをみつつ、しっかり
・お前とオレの時間は価値が違う
・悪いけど人間なんか相手にしてる暇ねえぞ
そんな主張をしていかないといけない。
もちろん「いやいや自分なんて、」と謙遜することも決して無駄ではない。
どんな時も自分を標準地点に戻す技術は必須である。
大きな力に内包されることは時には無思考でいられて、なんの不自由もなく感じる。
しかしそれは幻術である。
・現実は労働力は使い捨て
・君の代わりはいくらでもいる
いつだって、中指立ててないと
飼いならされたら最後、
本当にくだらない時間を過ごすのである。
もちろん副産物はあるだろう。
でも振り返った時そこには何もない。
自分の中にも、もちろん思い出もクソもない。
怖かった時のことを思い出す
本当に怖かった。不安で、本読んでもどこにも書いてなくて
アンタにもあったかもしれない
怖かった時
じゃあ今は?
人間の相手してる暇なんてねえぞ